”冗談だろう? 人生って、ジョークだったのか?
あまりの可笑しさに、僕は笑いが込み上げてきた。
僕たちは、人生というドラマの傍観者だったのだ。
でも、そこには愛が満ち溢れている。
いや、どこもかしこも、愛でギッチリ溢れているのだ。”
〜本文より〜
さて、ここまで、”真理の波の現れの私達”
というお話をしてきました。
宮古島の話は、まだ、続くのですが、
その前に、この”真理の波の現れの私達”ですが、
この真理って、慈愛のことだったりするんですね。
恋愛の愛ではなく、普遍的な慈愛のことです。
色即是空って、仏教用語だし、難しい感じがしますが、
慈愛がベースにあるんですね。
その辺りをちょっと、お話しますね。
最終的に、宮古島の神のお話に繋がる予定です・・
キーワード:空(くう)、慈愛
まず、この世界の土台/基礎は、空(くう)と呼ばれている、
何もない空間です。
ボイド(VOID)とも呼ばれます。(ゼロ磁場とは異なります)
つまり、漆黒の闇です。いま、この瞬間もこの暗闇は存在します。

本気で、暗闇なので何もありません。
ちなみに、自分の意識が向けられていないモノと人は、
いま、存在しません。
例えば、野外にいる時は、自宅は存在しないんです。
あなたが自宅を意識したときに、
漆黒の闇からシュワシュワと、自宅が現れます。
嘘みたいな話ですが、本当です。
70億分の1秒のスピードで、
あなたの無意識が世界を自動的に創るので、
わからないんですよね。
ですが、この漆黒の闇、つまり、空(くう)とは、
慈愛そのものであったりします。

でも、対象としての慈愛ではなく、
あなたを含めた全てが慈愛だということです。
このお話の難しいとこは、
言葉で説明すると”対象”が生まれてしまうことにあります。
あなたが何かを理解しようとする時には、
自分以外の何かを想像して理解しようと努力しますよね?
でも、慈愛とは、対象ではないのです。
慈愛とは、あなたを含めた世界が、既に慈愛だと言っているのですね。
ですから、理解しようと努めた瞬間に、
”私”と”私以外”の分離が生まれて、
慈愛から離れてしまうんです。
ですから、慈愛は探してもどこに存在しないんです。
なぜかというと、自分が既に含まれているからなんです。
慈愛を探すとは、
まるで、自分がかけているメガネを探す様な感じなんです。
*
漆黒の闇にも、何もないので、対象物が存在しないんです。
違う観点から説明すると、”私”しかいないのですが、
この”私”とは、宇宙にひとつしか存在しない
”私”(ワンネス)なので、まだ分離する前の私達なんですね。
この唯一の私を、”真我”と呼んでいます。
色即是空とは、森羅万象は、全てここにあって、
それは、何もない空間から生まれている、
という認識が、起こることです。
ですが、その時認識するのは、小さな私ではなく、
ワンネスの私(私達)です。
禅の僧侶は、70年坐禅を組んで、
色即是空の片鱗を目の当たりにします。
*
私達は、同じ一本の樹にくっついている、一枚一枚の葉だという
話を聞いたことはありませんか?

私達が生まれてくると、個人という肉体にはいり、名前が付けられ、
社会に出て、アイデンティティが生まれてしまうので、
自分たちが一本の樹木だということを忘れてしまうんですね。
ここまで、強引にビジュアルにすると、
世界の基礎の部分が空(くう)で、
空からほんの少し上がった場所に、慈愛が浮かんでいる感じです。
ひな祭りの菱餅みたいな絵ですね。

慈愛とは、感情の愛とは違うので、
勘違いしないようにするのが大切です。
ここでの慈愛は、観音様の慈悲みたいな感じですね。
観音様の慈愛/慈悲に触れると、私達は、ただ、ひれ伏すしかない
状態になるんです。それだけ、慈愛パワーは凄いんです。
恋愛の愛とは、ずいぶんと違いますよね?
”いまここ”という言葉もありますが、
いまここのゾーンに入ると、世界が輝いて見え、
私というものは、小さな自分だけではなく、
いつも遥かに大きな存在と一緒にいる、
という感覚が湧き上がってきます。
スピリチュアルには、
非二元論/ノンデュアリティのという分野があります。
ノンデュアリティでは、
すべては、いまここ、この瞬間にあるので、いつも完璧です。
もしくは、”私”は、概念であって、
”私”は、初めから存在しなかった…という説明になります。
これも、いま”ここ”、という観点からみると、真理だと思います。
いま”ここ”のゾーンは、慈愛に近いので、心地良いのですが、
いま”ここ”の世界を垣間見たとしても、
人として自分の魂の癒やしが終わっているのか?
といとそれは、また別の問題です。
*
さて、あなたを含め、世界はどっちに転んでも、
慈愛で出来ているいて、
その慈愛というセーフティネットが、
いつもあるという、お話でした。
ですので、 ”慈愛の波がせり上がってうまれた言葉、私達”…
でもOKなんですね。
真理から分離した私達とは、慈愛から分離してしまった私達だとも言えます。
本当は、分離していないのですが、言葉を情報として理解する様になり、
左脳偏重の社会になってしまったので、
真理である、または、私達の本質である、
慈愛から離れてしまった様の勘違いしてい生きる様になったのです。
*
このブログを書きながらも、色々と疑問が湧いてきます。
例えば、神様はどこにいるんだ?とかです、神さまとは、自分じゃなかったか?とかです。
さて、一体、どこに存在するのでしょうね。続く・・
オーストラリア在住21年の筆者が、自然療法であるホメオパシーでパニック発作を治療したところ、苦難の末、壮大な一瞥体験をし、2015年にスピリチュアルに覚醒した体験記。
”冗談だろう? 人生って、ジョークだったのか? あまりの可笑しさに、僕は笑いが込み上げてきた。 僕たちは、人生というドラマの傍観者だったのだ。でも、そこには愛が満ち溢れている。 いや、どこもかしこも、愛でギッチリ溢れているのだ。” 〜本文より〜
【こんな方におすすめ】
・自然医療に興味のある方
・悟り体験に興味のある方
・クンダリーニ覚醒に興味のある方
・スピリチュアルな浄化体験に興味のある方